個人の権利と公共の福祉

物心ついてからずっと,どうも個人の権利と公共の福祉のバランスが,前者によりすぎていると思っていた。 「個人の自由は,それを可能にする社会によって保障されている」という意識がなぜあれほどまでに希薄なのか,疑問に思っていた。 「修身 斉家 治国 平天下」というように,自己のありようを考える際には,はるか上方の組織に至る帰属意識がないと単なる個人主義に陥るだろうに,と思っていた。

最近になって朝日・日教組社会党ラインの輝きが失われるにしたがって,個人の権利と公共の福祉のバランスは適正に向かっているように思う。

ただ,こういうバランスは,いったん動き出すと加速がついて反対側まで一気に行きがちだから,洞察力のある人が注意を怠らないことが肝心肝心。

はてなのボイン論争

宗教(共産主義民族主義,民主主義などのイデオロギ含む)が教条化して排他的になるのと同じ構図。

あるいは民主党がおやつのバナナにこだわるのと同じ構図。

で,瑣末にこだわる風潮が支配的になると,知識人は嫌気がさしちゃって,システムを離れる,あるいは新しいシステムを求める,作るようになる。 これが新旧対立の構図。

はー,もう笑うしかない。

小便器と陰毛

男性の小便器には2タイプある。 すなわち床まで便器なものと,股上の高さあたりから便器なものだ。

女性の方はおそらく存じ上げていないだろうが,後者のタイプの便器の手前側の土手,すなわち小便者にもっとも近しい便器部分には,清掃直後でもない限り,始終陰毛が数本付着している

ソレは日本全国津々浦々どこの男子便所においても観察され,また付着しているソレの縮れの強さがマチマチであることから,これらが「とても陰毛の抜けやすい人」の単独犯行ではないことは容易に推察できる。

そう,世の男性は小便をするたびに期待値1くらいの確率で「小便をここでいたしました」という痕跡を残すのだ.陰毛というのはとてもよく抜けるのである。

これは不思議なことだ。 ワキ毛やマユ毛,ヒゲといった他の毛がそれほどボロボロ抜けるという話を聞かない以上,陰毛だけがああも容易に--しかも便器に付着するようなタイミングで--抜けることに,我々はたやすく納得するべきでない。

なぜ陰毛だけがああも小便の時に抜け,便器に多種多様な縮れ毛が付着する結果となるのだろうか

この問題を考察してみるにあたって,ワタクシは,先ほどの記述が実は非常に真実に近いであろうことに気づいた。 そう,オノコどもは小便の際,自らの陰毛を落とすことで「小便をここでいたしました」という痕跡を残しているのではなかろうか。

これは,クマがオノレの背中を木々にこすりつけたり,犬が小水をちびりちびりと諸処にふりかけたりすることで自らのテリトリィを主張する,マーキングと呼ばれる行為と同じである。

ここまで考えて初めて合点がいった。 なるほど陰毛はマーキングの所為なのか。

つまり便器に付着まします他者のテリトリィの証左たる他者の陰毛は,この便器が他者のテリトリィであることを雄弁に物語るアイテムなわけだ。 これはおちつかない。 いま小便をしている便器はワタクシのプライベートエリアとして認識したいものだ。

ワタクシの裸の銃と対面しているこの便器が他人のものだと?? 得心いかぬ!

ここに小便者の深層自我と便器の他者の陰毛とは排他関係を成すことになる。 すなわち深層意識は,自分が小便する便器に他者の陰毛の存在を許さず,「汝,陰毛ここに失せるべし」と高らかに主張するのである。

かくして今日も世の男性は毎日の小便のたびに,便器の土手にべばりついている他人の陰毛を自らのジェット水流で押し流すことになるのである。 もちろん,最後にハラリと自らの陰毛を落とし,マーキング行為を完結することを忘れたりはしない。
#そう考えると便器の陰毛がせいぜい2〜3本の均衡を崩していないことにも合点がいく。

なるほど,技術文明によって野性を失ったかに見えた人間はこういうかたちで,動物であったときの記憶を現出させているのか。

それにしてもこの陰毛はなかなか難しい位置にへばりついておる。 ワタクシの水流で押し流そうとすると...角度が....



...あっ!しまった!......足にかかった(T-T)

コンテキスト

http://amrita.s14.xrea.com/d/?date=20031207#p01
コンテキストを巡るコンテキスト
現代の若者は、生き死にの問題でなく単に学校へ行ったり就職するだけでこのようなレベルの深い葛藤を経験しているのではないでしょうか。そのような自己決定を手早く行なうことを強いることが、ひきこもり問題のひとつの原因であると思います。問題は、なぜそんな暴力的な強制を平気で行なう人がいるのか、なんでそんなことが平然とできるのかということです。

それは、「コンテキスト」や「自己」や「主体性」という概念を、単なるラベルとして感じてすませることができた人と、それが目の前にある避けがたい問題につながっている人のギャップではないかと思います。単なるラベルと思っている人は、「自分とは何か」「人生とは何か」という問題を「すぐに選べ」「適当に選べ」と気軽に言いますが、いちいち「自己」が解体する思いを経ないと選択、自己決定どころか検討さえもできない人がたくさんいるのです。

ワタクシはどちらかというと「コンテキストを単なるラベル程度と思ってすませられてきた人」になるのだろう。 ここ数日,それを痛感させられている。 文字通り胸が痛い。

現代の社会は,「コンテキストを単なるラベル程度と思ってすませられてきた人」に「優しさをもて」と挑戦しているといっていいだろう。 そして現状は,彼らが挑戦されていることに無自覚であるために,

なぜそんな暴力的な強制を平気で行なう人がいるのか、なんでそんなことが平然とできるのか

という悲劇が生じている。

人は自分の内側に多様なnarrativeをもっている。 周りの人の内側に,かくも多様なnarrativeがあることを,「コンテキストを単なるラベル程度と思ってすませられてきた人」こそが忖度することを要請されている。

いま,強くそう思う。

「強くなければ生きていけない,優しくなければ生きていく資格がない」という古いテキストに,新しい酒が注がれたのだ。

政体

自由の保証も法の平等も安全保障も重要なことだが,民衆が何よりも関心をもつのは,形に現れたもの,形をそなえたものである。 主権が民衆にある限り,政治は民衆の最大の関心事につながる形で示される必要がある

と誰かが言っていた(誰が言ったかは忘れてしまった)。

政治が即物的になるのは,主権を民衆がもつゆえの原罪という意見だ。 そして,現状はおおむねその観察どおりだろう。

そこで,「いやいや,国家百年の計(最近の言葉でいうとグランドデザイン)を念頭において国家運営できる頭のいい人が上にいてがんばってくれれば,近視眼的な国家運営は避けられるって」という人がいる。

しかし,グランドデザインの遂行はたいてい民衆の望みに逆行するので,そういうグランドデザイン派は主権者たる民衆にNOと言われ易い。 主権者がNOと言う意味について考えれば,グランドデザイン派が「民衆の意に逆らってでも」と言っちゃうのは,あるいはまわりが「言えばいいじゃん」というのは,主権在民の否定に他ならない。 でも,主権者たる民衆の意に反してでもやらなければならないことは,歴然とある。 そして現在の民主国家では,そういうことは目立たないようにコソコソやっている。 あるいはごにゃごにゃごまかしながらなし崩しで遂行している(笑)。

現在の国家は,民主政を謳う以上,この騙し騙しの構造から逃れられない。

騙しのポイントとしては国政参加の手続きは選挙だから主権在民。 だから民主政に見えている,それだけだ。

実はこの枠組みは,誰もが帝政として知っているローマ帝国と変わらないといったらどうだろう。 歴史の時間では共和政→帝政と習うが,ローマの主権者はずっと「S.P.Q.R.」すなわち「元老院ローマ市民」だった。 主権者たるローマ市民は市民集会という選挙で公職に就く人を選出したし,競技場でのブーイングなどによって皇帝の罷免に関わることもできた。

これは主権者たる民衆が選挙で公職に就く人を選出し,リコールで罷免に関わることもできる現状と何が違うだろう?

ローマ帝国の人々は,民主政だと思いたい人にはそういう点で民主政が見えるものだった。 そして一方で,元老院からローマの国政担当者の候補者を出していたので,共和政を見たい人には共和政の国に見えるという国体だった。 国政担当者を,現在の国政担当者たちの間で調整した人の中から選出する現在の選挙システムと何が違う?

われわれは,主権者たる元老院ローマ市民から統治を委任された「最高神祇官,最高司令官,市民の第一人者,護民官」(これを一人で兼ねれば「皇帝」として知られる人になる)にだけ目を向けて「帝政」あるいは「元首政」と呼ぶが,おなじクチで,それと大差ない現在の日本やアメリカを「民主政」と呼んでいる。

主権在民なのに,民衆のほとんどに主権者だという感覚がないのはそのへんの「騙し騙し」にあるんじゃないだろうか。

長くなった。 だからどうすればいいのか,というハナシはまた。

追記

http://white.sakura.ne.jp/~koy/diary/?12090413
みたいな反応されてるけど,この人はアイロニを読めないのか,あるいは意図的に無視しているのか(好意的解釈)。 馬鹿丁寧に解説しておくと,上の文は第2次湾岸戦争時に「人間の盾」で大騒ぎした人たちを馬鹿にしている文脈です。 「てめえらの『イラクの人のため』というあのときの大騒ぎップリのリクツを敷衍すると,今度は自衛隊をまもりにいかなくちゃならなくなるヨ?」みたいな皮肉。

コンテキスト非依存で脊髄反射しがちなワセダな人は気をつけよう。

大きな国の責任

http://www.wafu.ne.jp/~gori/diary3/000194.html
捻じ曲げられる日本人外交官の遺志

TBSといい,アカヒ新聞といい,マスコミは一体何がしたいのか。 なるほど,たしかにアメリカのイラク撤退は,短期的にはイラクの人たちの喜びにつながるかもしれないし,テロの減少につながるかもしれない。 もしかしてソコしか見ていないのではないか?

アメリカの撤退は結局はイラクの人たちを不幸にするのだということになぜ気付かないのだろう。 アメリカが撤退すればソマリアが再現されるのは自明ではないか。
#かつて,アメリカは内戦状態で無秩序な上に,飢餓にまで襲われたソマリアに介入し,秩序と食料をもたらした。 しかし,テロ取締りに市街地で武力を用いるアメリカ兵士はすぐに憎まれ役となった。 やがて「ブラックホークダウン」によって多数の兵士がソマリア国民に殺されると,アメリカはクリントンの政治判断でさっさとソマリアを撤退してしまった。 アメリカ撤退以降のソマリアは,再び内戦状態に陥り,国民は飢餓に苦しむハメになった。 そしてソマリアはそのまま今に至る。 さて,先進国は「ソマリアの人たちのため」に何をすればよかったのだろう。

なるほどたしかにイラクの人たちは,アメリカの撤退と主権回復を望んでいる。 そしてテロという手段に訴えて,その早期実現にまい進している。

だが,イラクの人たちが望んでいるからといって,今の状態のイラクで,アメリカが撤退し,イラクの人たちが主権を回復した場合,イラク全体が主導権争いの無政府状態に陥るのは自明ではないか。 無秩序な社会は,結局はイラクの人たちを不幸にする。 内戦は国土も国民も疲弊させるし,その上,より多くの人が死ぬことになるのだ。

いま,イラクの人たちの短絡的な望みを単純にかなえてあげるということは,単にテロに屈するというだけではなく,中長期的なイラクの人たちの幸せを考えることを放棄することにつながる

その頬かむりは,世界第2位の国がとるべき外交態度ではない。 イラクの人たちからの敵意を前にしても,歯を食いしばって,イラクに秩序を打ち立てることが,世界全体に対して日本の責任を果たすことになるのではないだろうか。

そして,後々のイラクの人々に感謝されるのは,イラクの人たちの望みどおりに手を引いた者ではなく,発展可能な基盤を築くのに尽力した者であると思う。

さぁ,「人間の盾」諸君,イラクの人のためにも,自衛隊がテロにやられることがないように,ただちにイラク入りだ。