政体

自由の保証も法の平等も安全保障も重要なことだが,民衆が何よりも関心をもつのは,形に現れたもの,形をそなえたものである。 主権が民衆にある限り,政治は民衆の最大の関心事につながる形で示される必要がある

と誰かが言っていた(誰が言ったかは忘れてしまった)。

政治が即物的になるのは,主権を民衆がもつゆえの原罪という意見だ。 そして,現状はおおむねその観察どおりだろう。

そこで,「いやいや,国家百年の計(最近の言葉でいうとグランドデザイン)を念頭において国家運営できる頭のいい人が上にいてがんばってくれれば,近視眼的な国家運営は避けられるって」という人がいる。

しかし,グランドデザインの遂行はたいてい民衆の望みに逆行するので,そういうグランドデザイン派は主権者たる民衆にNOと言われ易い。 主権者がNOと言う意味について考えれば,グランドデザイン派が「民衆の意に逆らってでも」と言っちゃうのは,あるいはまわりが「言えばいいじゃん」というのは,主権在民の否定に他ならない。 でも,主権者たる民衆の意に反してでもやらなければならないことは,歴然とある。 そして現在の民主国家では,そういうことは目立たないようにコソコソやっている。 あるいはごにゃごにゃごまかしながらなし崩しで遂行している(笑)。

現在の国家は,民主政を謳う以上,この騙し騙しの構造から逃れられない。

騙しのポイントとしては国政参加の手続きは選挙だから主権在民。 だから民主政に見えている,それだけだ。

実はこの枠組みは,誰もが帝政として知っているローマ帝国と変わらないといったらどうだろう。 歴史の時間では共和政→帝政と習うが,ローマの主権者はずっと「S.P.Q.R.」すなわち「元老院ローマ市民」だった。 主権者たるローマ市民は市民集会という選挙で公職に就く人を選出したし,競技場でのブーイングなどによって皇帝の罷免に関わることもできた。

これは主権者たる民衆が選挙で公職に就く人を選出し,リコールで罷免に関わることもできる現状と何が違うだろう?

ローマ帝国の人々は,民主政だと思いたい人にはそういう点で民主政が見えるものだった。 そして一方で,元老院からローマの国政担当者の候補者を出していたので,共和政を見たい人には共和政の国に見えるという国体だった。 国政担当者を,現在の国政担当者たちの間で調整した人の中から選出する現在の選挙システムと何が違う?

われわれは,主権者たる元老院ローマ市民から統治を委任された「最高神祇官,最高司令官,市民の第一人者,護民官」(これを一人で兼ねれば「皇帝」として知られる人になる)にだけ目を向けて「帝政」あるいは「元首政」と呼ぶが,おなじクチで,それと大差ない現在の日本やアメリカを「民主政」と呼んでいる。

主権在民なのに,民衆のほとんどに主権者だという感覚がないのはそのへんの「騙し騙し」にあるんじゃないだろうか。

長くなった。 だからどうすればいいのか,というハナシはまた。