コンテキスト

http://amrita.s14.xrea.com/d/?date=20031207#p01
コンテキストを巡るコンテキスト
現代の若者は、生き死にの問題でなく単に学校へ行ったり就職するだけでこのようなレベルの深い葛藤を経験しているのではないでしょうか。そのような自己決定を手早く行なうことを強いることが、ひきこもり問題のひとつの原因であると思います。問題は、なぜそんな暴力的な強制を平気で行なう人がいるのか、なんでそんなことが平然とできるのかということです。

それは、「コンテキスト」や「自己」や「主体性」という概念を、単なるラベルとして感じてすませることができた人と、それが目の前にある避けがたい問題につながっている人のギャップではないかと思います。単なるラベルと思っている人は、「自分とは何か」「人生とは何か」という問題を「すぐに選べ」「適当に選べ」と気軽に言いますが、いちいち「自己」が解体する思いを経ないと選択、自己決定どころか検討さえもできない人がたくさんいるのです。

ワタクシはどちらかというと「コンテキストを単なるラベル程度と思ってすませられてきた人」になるのだろう。 ここ数日,それを痛感させられている。 文字通り胸が痛い。

現代の社会は,「コンテキストを単なるラベル程度と思ってすませられてきた人」に「優しさをもて」と挑戦しているといっていいだろう。 そして現状は,彼らが挑戦されていることに無自覚であるために,

なぜそんな暴力的な強制を平気で行なう人がいるのか、なんでそんなことが平然とできるのか

という悲劇が生じている。

人は自分の内側に多様なnarrativeをもっている。 周りの人の内側に,かくも多様なnarrativeがあることを,「コンテキストを単なるラベル程度と思ってすませられてきた人」こそが忖度することを要請されている。

いま,強くそう思う。

「強くなければ生きていけない,優しくなければ生きていく資格がない」という古いテキストに,新しい酒が注がれたのだ。