二院制の立て直し

二院制は,共和政と民主政のハイブリッド案として始まったのではなかったのだろうか。

#ワタクシは共和政と民主政のハイブリッドこそが理想のバランス!と個人的に信じている

二院とは,古代アテネ,ローマの市民集会の延長である衆議院と,かつての貴族院(さらにさかのぼればやっぱりローマの元老院)である参議院であり,これらはその成り立ちから分かるように,その性格と求められる役割は本来大きく違うものだ。

ところが日本では,参議院はせいぜい衆議院ダッシュであり,議事進行の手間をいたずらに増やしているだけ,という様相を呈しているのが現状だ。 議員が衆議院と同じように選ばれて,衆議院と同じように運営されているのだから,「良識の府」とか言ってみても,そうなるわけがないのは当然なのだが(笑)。 それどころか,参議院選挙のたびにイロモノ立候補が乱立しているのを見ると,なんなら衆議院より「良識の府」から遠くなっているようにも思う。

現在の参議院には,「解散を気にしない議論ができる」というくらいしか衆議院との違いはない。 これは,「みんな平等」の朝日新聞的幻想のために,参議院が担うべき元老院貴族院的役割,すなわちエリートプールとして機能しながら,近視眼的になりがちな市民集会--衆議院を掣肘すること,を声高に議論することがなんとなく憚られてきた結果だろう。

日本の政治家の歴々が,弱者救済や社会福祉,地元利益誘導などの大衆ウケのいい政策が得意な反面,中長期的なビジョンに基づく一種冷徹な政治運営が苦手だったのは,彼らが市民集会的な性格の議院しかもたなかったからだ。 そして,悪平等の弊害に対する意識が広がりつつあるいま,参議院に本来の性格と役割をもたせることについて議論するべきじゃないか思う。

例えば,参議院の選挙権・被選挙権を有資格者に限り,その資格の取得には試験を必要とするようにするというのはどうだろうか。 選挙権の制限が難しければ,せめて被選挙権だけでもよい。 試験は参議院を「良識の府」として運営するに足る自覚があることを確認するもので,記述論文を公開で試験するくらいがいいだろうか。

なんしか,自民党内部の左右のブレだけに民主-共和のバランスとりを頼っている現状*1というのは甚だ心許ない。 よくわかんないしね。 二院制を本来の形に戻すことで,政治に携わる人たちの立脚ポイントを詳らかにしよう。

*1:ちなみに民主党菅グループがクソすぎて役に立たない。 自民党内部の左よりなグループのほうがよっぽどまともだし,立派に影響力をもって政局の一翼を担っている

民主制自動車

http://www.chakuriki.net/diary/archives/000304.html
借力[CHAKURIKI] 5P日記

id:bmpとかにクチすっぱくして言ったのが,これ。 戦後日本の民主主義の悪平等は,ハンドルの多い自動車に極まれり。

経営は経営のプロがやるべし。 「年とって,出世してきたから,じゃあつぎはアナタ」じゃなくてね。 ヒラから管理職,そして経営者という合議制出世すごろくは民主的だけど,今の時代,それではマトモな会社経営できないことは,自覚的な企業はみんな気付いてるでしょう。

地元に地道に貢献して当選回数かせいで,ゆくゆくは大臣,てな人が国政の責任者な時代じゃないでしょう。

あることを上手にできる人をつくって,その人に任せちゃうという一見不平等ぽい社会の方が,かえってマクロに利益を生みそうな予感なわけよ。

つまり,選挙はするけれど,立候補する人はエリートプールから出す,みたいな。 そーはならんもんかいなと。

近視眼的でトロい運営では,いろいろ不都合が出てきとるわけですよ。 で,時代のニーズがあるからって,制度にそぐわない状態でムリにそーいうことやろうとすると,小泉さんが独断専行といわれちゃうわけなのな。

自覚レベルと属すべきコミュニティ

http://bewaad.com/archives/themebased/reflex4.html#Dec1703
に反応して。 (via 圏外からのひとこと)

最後から3段落目までは全く同意。 ただし,

指導者層が主導して一定の方向性を与え、それについて疑問がないわけではない成員も、他にこれといった代替策が思いつくわけでなし、参加しないことによる「村八分」のコストがあまりにも高いため、指導者層に従うという政策形成が可能であろうが、それは既に(少なくとも日本では)成立し得ない時代を迎えている。

に関して,異論がある。 確かに,そういう「『右に倣え』のやり方に,コミュニティからの離脱コストの低下に従って甘んじることのできなくなったコミュニティ成員」にとって,旧来の日本(あえて言うなら戦後の民主日本)は,なにも提供できておらず,彼らの間には不満が広がっていることとは思う。 現に,その現れはワタクシの身の回りでも散見されている。

しかし,日本を構成する「主権者:国民」の大多数はそれでも依然,そうしたコミュニティに身を置いていることを忘れてはならないと思う。 すなわち,

日本人である、男性であるといった生まれながらの属性、東京大学卒、国家公務員といった所属する組織、その他趣味や嗜好、人生経験など様々な集合が社会には存在しているのだが、それら無数の集合が重なり合う一点に自らのアイデンティティを見出し、それらの集合において期待される行動を取ることにより、他人からその集合に属することを断続的に承認され、そのアイデンティティ再帰的に強化している。

という人たちだ。

ワタクシは,旧態依然たる彼らに対しては,いまの枠組みでいいと思う。 そして,彼らがおそらく日本人の大多数であることを忘れてはならないと思う。 おそらく8割をも占める彼らに,「新しいコミュニティ像」を提示することは,急進的すぎて危険だとすら思う。 社会の安定も考えれば,基本方針として,現状維持が正解だと思う。(思ってばっかりだ)

*ここまでは脊髄反射。 なんせワタクシは穏健主義者なもので(笑)

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もちろん,残りの2割,すなわち,「旧来の『属性の和集合が自分に対して求める人間像』の希求でヨシとできない人」には,新しいアイデンティ確立の方策を提供すべきである。 このことに対する危機感は先見者たる知識人が等しく共有しなければならないことである。 ワタクシも,その点に関する危機感は引用元の記事と共有している。

ただ,そこでワタクシは思う。

その2割の人たちに提供すべきは,引用記事が言うような,「テーマや時間を区切った上で、参加者が主体的に参加しているという実感を得られるようなオペレーション」といった単純な代替物ではなく,従来のコミュニティの上位概念,すなわち「公共」の概念である,と。

それは旧来の「ムラレベル」のコミュニティを越えた,そうしたいずれのコミュニティ(例えば,「あるチャット」「ある会社」「ある隣組」「ある血縁関係」)をも包含するメタコミュニティへの帰属意識だ。

それを認識し,それをかの人たちの中で,旧来の「狭い」コミュニティの地位と置き換えることができれば,それは,かの2割の迷える人たち,危機感を覚える人たちにとって福音となりえないだろうか。

おそらく,かの2割の人たちは,先見性というか鋭い感性をもった人たちである。 そして彼らは同時に,少数者であるがゆえにナイーブでもある(そのために彼らは現在,被害をこうむっていると言えるだろう)。

そこで,彼らが現在こうむっている被害を最小限にとどめるために提案する。 かの2割の人たちに,従来のコミュニティ概念の上位概念たるメタコミュニティに仕えるという選択肢を与えること,そして彼らが,より進歩的な考えに基づいて,従来のコミュニティではないメタコミュニティに仕え,そして彼らのメタコミュニティへの尽力が,旧来のコミュニティにプラスになるというコモンセンスを,かの8割の人たちも含めたメタコミュニティの成員全てで共有できるようにしようではないか。

そう,旧来のコミュニティの成員として不完全な彼らが,メタコミュニティの成員として十全であることを,かの2割の人たち自身のみならず,それを取り巻くかの8割の人たちも共有しようではないか(もちろん,その推進には教育が最も有効であろう。 日教組排除すべし!w)。

もし,かの2割の人たちのうちで,例えば日本というコミュニティに,彼のコミュニティ・ベン図が重畳しきれず,旧来のムラコミュニティ(「コミュニティ・ベン図」での大きな重なりを示す)に対する上位概念として日本を志向できないものがあれば,そのときは彼らはさらにそのメタコミュニティとして例えばasiaを,そしてglobeを志向すればよい。 自分のコミュニティ・ベン図が収束するスケールを選べばいいのだ。

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引用記事の示すように,技術(情報技術,運送技術など)の制約によって,狭い地域の構成要素であった「旧来のコミュニティ」は瓦解しつつある。 加速度的な技術の進歩に常に遅れる意識の進歩も,やがては地域の制約を脱するだろう。

人類世界は,トインビーのいう世界国家に100年かけて到達せねばならないフェイズにおかれているのである。

フランス人は食事の質を重視し,
ドイツ人は食事の量にうるさい。
中国人は食事を平らげることにこだわり,
韓国人は食事が自国のものであることを主張する。
イタリア人は食事の相手を探すのに躍起になり,
イギリス人はマナーだけを気にする。

系への信仰

個人主義の跳梁は,世界を覆いつつある西欧的価値判断の悪弊の所産である。

西欧において高等宗教がその力を失った後に出現した,高等宗教の退化・劣化版でしかない現代の宗教「共産主義」「国家主義」「個人主義」のうちで,元来最強な個人主義がさらに強くなってしまって,社会が歪みすぎないわけがない。 すでに共産主義は倒れた。 現代の技術発展の下でその役割を終えつつある国家主義は,いまや分裂と対立の基盤でしかない。 個人主義の暴走を止める,新時代の高等宗教が必要なのかもしれない。

それは「社会全体・高所からの視点を重視しがちな共和政(遠視眼的・全体主義的)」と「社会の構成員の視点を重視しがちな民主政(近視眼的・個人主義的)」の中間を志向する,「系への信仰」になるだろうと思う(そう願う)。 系への信仰の下では,右も左もない。 ふれすぎたバランスこそが悪となる。

(追記)あ,ちなみに今日の記事中にでてくる全体主義って,公益主義っつーか,そーいうニュアンスでよろしく。