政治体制

日本では,大多数の人間は先行きに不安をもちはじめ,閉塞感が漂いつつあるものの,総体的には依然幸せだと思う。 ならば,目に見える改革は,マスコミの反発煽りをまねき,その結果民衆の反発から望ましくない結果に終わる恐れがある。

変わっていることを民衆に悟られないくらい漸進的な体制変革で,いつのまにか民衆が自分たちの社会に対して誇りをもてればいいと思う。

いまの日本社会では,幸せ総量が逓減している。 その原因として,民主政(=大衆政)の果実がすでに取り付くされ,民主政の悪弊が腐臭を放ち始めていることに対する無意識的な不満の高まりがあるように思える。

ならば,今度は共和政(=寡頭政)の果実を取る時期なのかもしれない。 新制度もやがては旧制度となって制度疲労を起こすのが絶対的な真実なのだから,針は適切な速度で触れ続けさせてさえおけばいい。 変化を大衆に悟られないうちに共和政(=寡頭政)の果実を社会が得られるようにする方法が求められている。

現在,日本の民衆には,行き過ぎた悪平等に対するうんざり感が蔓延している。 だから,民衆が指導層を誇りに思う,という方向にゆるゆるもっていけば,平和裏に共和政(=寡頭政)の果実が,社会の幸せ総量の拡大をもたらすことになる。

そのためには民衆がその存在を誇れるような,「高貴なる義務」の精神を備えた指導層がほしい。 ただ,現代という時代は,かつてのように,財産的,係累的な貴族性をもつ人材が精神的貴族性を兼ねる時代ではないので,エリートにその精神性を求めるかたちになる。 これが今の日本に欠けている。

こうした精神性の養成には,組織風土の効果を使うのがいいだろう。 これは慶応出が慶応出として振る舞い,早稲田出が早稲田出としてその自負のもとに行動するように,出身風土が,思われている以上に行動を決定するという観察に基づくアプローチだ。

かつての一高,旧帝大みたいな,自他共に認める指導層の養成機関を,国の大々的なバックアップ(アンド民衆のコンセンサス)のもとに設立・運営し,そこでは地元利益誘導型を恥とし,ノブレスオブリジの精神に基づいて行動することを誇りとする人材像を,その組織の人材像とする。

そして,その組織を出ることが指導者層に属するための条件であることをじりじりと不文律化する。

そうすると日本は引き続き国民主権で,公民権は平等に分配されているまま,官僚と政治家の意識だけが変わる。 日本は制度的には何も変わらず,そしてid:bmp定義の民衆(理解力が無いわけではなく自ら理解することを放棄してる人間をおそらく民衆と呼ぶ)は何も気付かないうちに,日本は方向修正される。