扇動

大阪教育大学附属池田小学校の児童殺傷事件は,マスコミのいびつさを浮き彫りにした,という捉え方は世間ではあまりされていないようだ。

たしかにあれは痛ましい事件ではあるが,文部科学省が管理責任を認めて謝罪し,賠償と対策に2億円を投じなければならなくなるような事件ではなかった。 あのような事件の防止責任が学校にあることが先例になれば,今後,全国の小学校は要塞化しなければならなくなる。 そのような顛末が滅茶苦茶であることは,まともな頭脳の人ならすぐわかることだ。 事実,現場の人たちは学校の管理責任について,そのような責任は負える代物でないと,法廷で争うつもりであったと聞く。 当然だ。

しかし,被害者の親を,お涙頂戴対象としてワイドショー仕立てで報道するマスコミの煽りは,親側の主張を是として,そのほかのあらゆる正常な判断が発露する機会を封じ込めてしまっていた。 事件を説明する学校側に対して「防げなかったお前が死ね!いますぐこの窓から飛び降りてみせろ!」と叫ぶだけでなく,子供を守るために怪我を負った現場の先生を,子供を守りきれなかったといって強権でもって余所に飛ばし,裁判で今後のために責任の所在を明確にしようとしていた文部科学省に圧力をかけ,一転して全面謝罪と対策費をもぎとっていった附属の親の姿は,誰からも批判されずに怒りの赴くままにポリティカルパワーを振り回すゴリアテであった。 しかし,マスコミは,ただただ葬式の映像を流して,宅間被告を非難することで,あくまで子供を失った同情の対象となる悲劇の人たちの虚像を演出しつづけた。

裁判を通して学校の管理責任の所在を明らかにしようとする動きは,政治力を感情的に振り回す被害者の親,そしてその流れに逆らうのは非人間的だ,というお涙頂戴の報道姿勢がつくった世間の風潮によって圧殺された。 学校の管理責任の奈辺は明らかにされずじまいだった。