人間の才能

人間の性能(いやな言葉だけど,言いえて妙だから使う)は,天賦の才能と,後天的な努力の積み重ねの総和として現れる。

天賦の才能には個人差が歴然と存在するし,後天的な努力といっても「努力ができる」という才能がまたある。 さらに後天的な努力による積み上げにも限界がある。 例えば野球。 高校野球ならば,それこそ天賦の才能の少なかった人も努力の積み重ねによって,甲子園レベルに到達するだろう。 だが,プロ野球にいって,そこで成功するために努力をいくら積み重ねても,生来天賦の才を多く与えられた人間にはどうやっても届かない。 野茂,イチロー,佐々木...これらの選手よりもっと努力した人もいるだろうが,それでも彼らにはとうてい及び得ない。

こうした結論は,個人の性能全般には生まれながらの上限が必ずあるのだ,というある意味悲惨なものだ。 人間には性能の上下がある程度決まっているのである。

一体何がいいたいのかというと,昨今のいわゆる「点をとる教育」に関してだけは,この大原則をほとんどの人が忘れてしまっている,という点について,一言物申したかったからだ。

人間には,あらゆる分野において天賦の才能の多寡がある。 運動神経に関しては才能論に納得する人が,どうして勉強に関してはああまでかたくなになるのか。 家庭教師をつけようが何をしようが,全員が全員,東大に現役で受かる人間にはなれないのだ。 ちょうど努力だけでは一流プロ選手になれないように。

ただ,もちろん天賦の才に恵まれながらも,努力なしでは性能は向上しないので,その結果は平均の遥か下になるかもしれないし(さいしょっから平均以上の天賦の才のある人も当然いるけどね),めちゃくちゃ努力する人は上限いっぱい,すなわち普通で見て「かなりの」ところまでいくはずだ。

#ちなみに阪大までは努力で来れるらしい(笑).

もともと出来ない人でも,努力を払ってある程度はものになる。 しかし,その為に何を犠牲にして,そして何を手に入れるのかという取捨選択を間違えている親が非常に多いように思える。 多大な犠牲を払って能力ギリギリの結果を手に入れることが,それと引き換えに失う幾多の大切なものと見合うのだろうか。 そうやって精一杯まで背伸びして入り口に到達したところで,そこからどうやって伸びていくと言うのか。

子供は教育に関して完全に親に主導権を握られるからこそ,そのあたりのバランスとりを親はもっと真剣に,もっと慎重に考えなければならないと思う。 才能の限界まで,試験のための勉強をしなくてもいいではないか。 親は,過剰に勉強すれば,勉強より大切なものが失われることを知る必要がある。

現代の日本社会がどう考えても明治時代以前の社会より貧困なのはそのあたりに起因しているように思える。 点取り勉強が,その他の時間を奪い過ぎているから,「テストで点をとる以外なんにもない」人がわらわらいる社会になってしまっているのだ。


一方,感受性や人間性の豊かさの先天的な限界は,遥かに遠い。 そしてそれを追い求めれば,ミクロの視点では個々人をより深いものにし,マクロの視点では社会をもっと豊かな,実りあるものにする。

一緒に山にいって,カブトムシのとりかたを教えたりする中で,子供は一生大切にできる感受性と,その重要な構成要素である「思い出」を手に入れることができる。 この方が時間の使い方としては,はるかに有効じゃなかろうか。