この世はMatrix

大阪のゴスロリ少女,なんで殺しちゃだめなの問題の少女,幼女嗜好などの特殊な性癖をもつ人などは,いま我々が生きる社会の規範(コード)に不適合を起こしている人たちであると言える。

彼らは社会に適合するために,彼らにとって不合理ともいえる忍従を強いられ,この社会そのものに違和感を覚えていることだろうと思われる。そういう人たちにとって,「もしこの世界がMatrixなのだったら」に代表される「この世は偽りで,自分にとって違和感のない世界が別にある」という考えは救済となる可能性がある。Matrix風に言うと,"The Red Pill"によって「自分と不適合な世界を捨て」,「答えてくれる世界を得る」という考えだ。
#社会の構成員から,そうした「違和感を持つ人たち」を永久に除くことは非現実的なわけだから,「ザイオンのある世界」を用意しておくというMatrixのアーキテクチャは実に巧妙と言える。

かつては,その役割を宗教あるいは民俗的価値観が担っていた。現世の精神的悲しみを軽減する装置として,来世という救いを与えるわけだ。

が,前者は教義の無謬性を追求する方向にシステマイズされる宿命から逃れることが出来ず,後者は近代化に飲み込まれて息絶え絶えで,そうした原始的な役割を果たせなくなっているのが現状だ。
#いまや個人は,自分で自分を救済しなければならない時代となっているのだ(断言)。

現在は法で裁くというカタチで,消極的であれ,なんとかそうした人々を社会に止めようとしているに過ぎない。こうした社会は,一定の確率で社会に適合できない人が出現する一方で,「自分自身による救済が出来ない人」(ほとんどがそうだと思う)が取りうるオプションが,ロクに用意されていないと言えるわけで,社会として致命的ではないだろうか。

いっそ,社会のコードに不適合を感じた場合に,安心して自分自身を社会から排除できる社会にしてしまった方がいいのではないかとすら思う。「安心して自分自身を社会から排除する,というオプションを許容する社会」は,社会の幸せ総量を増加させそうな気がする。

そのオプションは隠遁かもしれないし,自殺かもしれないが,とにかく現在はそのいずれもオプションも許容されていない。社会から自分自身を排除する自由は認められていないのだ。

とはいえ,冒頭に挙げた人たちほどでなくても,誰であれ,大なり小なり社会に疑義を差し挟むことはある。なんでもかんでも「社会に疑義を差し挟んだら,即社会からの退去」では,社会は成り立たない。「『この世界はMatrixだ』という幻想を共有する社会」あたりが落としどころだろうか。