ナメクジの実験

ナメクジに塩をかけて退治することは,都会にあって自然に触れることの少ない子供が,ナマの(文字通りナマの)自然科学に触れることのできる,少ない機会の一つである。

塩をふりかけられたナメクジは,火がついたように苦悶にゆったりと身をよじり,夥しい体液をその周囲に流出する。運良くふりかけた塩の大部分を,その体液と一緒に振り落とすことができ,かつ残酷な子供が追い討ちの塩をかけない場合を除く,ほとんどの,本当にほとんどの場合,ナメクジはしまいに絶命する。

ただワタクシとしては,子供たちには,いつも塩。 いつも絶命。 これで終わって欲しくない。 この神秘的にさえ見えるナメクジの絶命プロセスを使って,もっとさまざまな実験をして,「科学する心」を養って欲しいナと思うのである。 「科学する心」こそ,ゆとり教育の名の下に失われて久しいものであり,停滞久しい日本の将来を飛躍させる原動力に違いないのである。

すなわち,ナメクジを相手に,創意工夫を凝らして実験を重ねる子供が担う未来は,ジツに明るいといえよう。



例えば,塩の代わりの物をナメクジに撒けば,どうなるのだろう。 ナメクジと塩が邂逅する場所,すなわち台所には,そうした実験材料がたんと揃っている。 砂糖,小麦粉,胡椒,醤油,サラダ油...ナメクジ発見の度に -- すぐに「遊んでないで,そんなもの包んで捨ててしまいなさい!」と言う母親さえいなければ -- そうした新材料を次々と試す子供は,やがてさまざまな事実を発見することだろう。

あるものは効果が全くなかったり,あるものは効果が少なかったり。 またあるものは掃除が大変だったり...そしてそれらの様々な結果が頭の中で組織化され,なんらかの結論に収斂していくこともあるだろう。

例えば「砂糖は塩より安いのに,同じように効果的なんだ...じゃあ,『ナメクジには塩』っていうよりも,砂糖のほうがいいよなー」という結論。

たとえその結論が「なぜ砂糖も塩もナメクジにに効果があるのか」という科学的な説明に立脚していなかったとしても,私はそこに,立派に「科学する心」があると思う。 それは,子供が知る限りの知識と,もてるかぎりの知性による洞察によって生まれた,賞賛に値する知性の発露だ。



蟻の隊列や,捕まえた蝉を使って遊んでいる子供は,無邪気に「科学する心」を養っている...のかもしれない。 もちろん,そうでないこともあるだろうが,だからといってそれを無理に毟り取る必要もないことはもっと確かだ。

だから願わくば,世間の親御さんには,ナメクジあいてに5分間じっと座っている子供を,そのまま放っておいてはもらえないだろうか。